大判例

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大阪高等裁判所 昭和41年(ネ)873号 判決 1969年12月16日

控訴人(付帯被控訴人)

株式会社エビス屋

代理人

山本正司

金谷康夫

被控訴人(付帯控訴人兼亡松本正彦の相続人)

松本怜子

同(亡松本正彦の相続人)

松本淳

ほか二名

代理人

土井一夫

主文

原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。

被控訴人らの右の部分についての請求及び付帯控訴を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実《省略》

理由

亡松本正彦が亡松本かよ子(昭和三三年九月五日生)の父、原告松本怜子が同人の母であること、被告が肩書地に工場、店舗を有するパン、洋菓子の製造販売業者であること、かよ子が昭和三六年二月三日午後四時一二分頃河合病院で死亡したこと、被告方の取締役であり従業員である奈佐原孝が昭和三七年一二月一一日、業務上過失致死罪の容疑で起訴されたこと、正彦が昭和四四年三月一五日死亡し、妻である怜子、子である加延子、淳、真周が相続したことは、当事者間に争がない。

<証拠>によれば、昭和三六年二月三日午後三時三十分頃、被告方の従業員である奈佐原孝(取締役)と伊藤明が自動車で商品の配達と集金を終えて帰社したが、その時乗つていた自動車は、被告方の営業用のトヨエース、ライトバン大四ぬ三七九四号であつたこと、当時は奈佐原が右側の運転席で運転し、伊藤が左側の助手席に乗り、被告方と原告方が相対峙して並んでいた茨木市下中条四二四番地の三の先の道路上を東から西に向け進行し来り、被告方の西にある巾二、六六米の露地の西端と自動車の後尾が直線をなす西川米穀店前の地点で停車したこと、当時奈佐原は、停車直前のことでもあり大分減速して時速約五キロ米で進行して来たこともあつて、その左前方に当る前記露地を三、四米南に入つた地点で二人の小さな子供が遊んでいるのを金網越しに見たこと、左側にいた伊藤もこれを見たこと、この二人が死亡したかよ子とその友達の中村義弘(昭和三二年一〇月一日生)であつたこと、停車して、奈佐原は右扉から伊藤は左扉から下車し、その露地の東側の通路を通り階段を上り被告方の事務所に入り、奈佐原は、食事にかかり、伊藤は、集金して来た金員を伝票とともに係の高橋清介に渡したが、その時助手席の物入れに一〇円硬貨五〇〇円を棒状に包んだ小銭包を忘れて来たことを思い出し、これを取りに戻り再び事務所に来て一服した後、今度は自動車に積んである約五〇個の空箱を降ろすべく三度自動車の方に戻つて来た時、それまでは普通に遊んでいたと思われたかよ子が露地入口の溝にかけてあつた板の上に坐り脚を北の方に投げ出して泣いているのを発見したこと、これを見た伊藤は、かよ子を抱きかかえ「どうしたんだ」ときいたが「お母ちやん」といつて泣くばかりなので、傍らの義弘にきいたところ車に当つたんだという趣旨のことを返事したこと、それで伊藤は、かよ子を抱いたまま階下の工場の入口に至り、工場長の瀬川種夫にその事情と何処の子か尋ねたが、同人も知らぬといつたこと、そこで露地入口の方へ戻つたところ、付近の主婦吉田和子がいて三洋薬局、即ち原告怜子の子供であることを教えたので、そのまま同原告方に行き原告怜子にかよ子を渡したこと、この頃からかよ子の顔色が蒼白に変じたこと、原告怜子は、かよ子を受取るとともに異状なので水を飲ませたが、かよ子は、水を飲終ると眼をむき、「お母ちやん」ともいわなくなつたこと、そこで早速西川秀男の運転する自動車で河合病院に連れて行き医師小野博通の診療を受けたこと、小野医師が診た時、かよ子は、既に瞳孔散大、心膊、呼吸とも停止していたこと、そのため人工呼吸、心臓マツサージ、強心剤の注射を行い蘇生を図つたが、同日午後四時一二分頃死亡したこと、小野医師が診断した時もかよ子の身体に外傷はなく、特に処置を要し、死亡原因と思えるような外傷はなく、同医師は、内出血によるショック死でないかと判断したこと、又小野医師から相談を受けた院長河合文男も死亡原因を判断できず、頭を打つた内出血でないかと想像し、肝臓の破裂とは全く想像しなかつたこと、かよ子が河合病院へ連れて来られてから間もなく、同病院から電話連絡があり、伊藤明と奈佐原孝が病院に来て警察官から事情をきかれ、又現場に戻つて事情を説明したこと、かよ子は、翌日大阪医科大学法医学教室の大村得三の執刀で解剖されたところ、かよ子の肝臓は破裂し腹腔内に二六〇ミリリツトルの血液が溜つていたことが発見され、その死因は、大きな鈍体により腹部を挫圧したため肝臓が破裂し、内出血したためと判断されたこと、尚この解剖時の検査によると、かよ子の左眼外眥部、恥骨部、右鼠蹊部に各拇指頭面大の皮下出血のあることが認められたが、このうち左眼外眥部の皮下出血は、死亡より二日程前、かよ子が玄関の下駄箱に当つて生じた傷と考えられ死亡当日に生じたものではなく、その他のものも取立てていう程の外傷ではなかつたこと、死亡当日かよ子が伊藤明の手で原告方に届けられた後、前記中村義弘は、原告方の隣で、母中村徳枝の実家である木原三男方に緊張して戻り、祖父の木原三男に対し、「かよちやんがエビス屋のブーブーに、当つてこけた」といつてあたかも事故があつたかのようなことを告げ、かよ子の死亡後、原告松本怜子や警察官上村国男の問に対しても同趣旨のことを答えていること、奈佐原孝は、刑事事件の第一審では、前記自動車の左前部を、かよ子の右胸部、腹部付近に接触させた、即ち奈佐原の過失によつて自動車をかよ子に衝突させて同人を死亡させたと認定され有罪とされたが、第二審では、この認定はその可能性があつたというに止まり証明不十分として無罪とされたこと、の各事実を認めることができ、以上の認定に反する前記証人、本人の各供述の各一部又は書証である供述調書の一部の記載は措信しない。

しかして、<証拠>によれば、かよ子の死因が前記のごとく鈍体が腹部に当つたため肝臓が破裂し、そのため生じた出血によるものというのであり、外傷がないところからこれはか、よ子を轢いたとか、はねたために生じたものではなく、自動車が停止せんとしてブレーキをかけたが、その時にまだ残つていた自動車の進行せんとする情力で被害者に接触して衝撃を与えたものと考えることができるというものであり、その場所からして自動車前部のバンバーが接触したものと想定できるというのであり、それまで普通に遊んでいたかよ子が、突然、死亡するような肝臓破裂の傷害を受けたのは、何らかの外力が作用した結果と考えるのが普通であり、本件自動車が停止した時間から、伊藤が泣いているかよ子を発見して抱きあげたまでの時間が十分位という接着した時間であり、本件自動車以外に他の自動車が通つてかよ子に接触したという証拠のない本件において刑事の第一審裁判所や本件原審が認定したように奈佐原の運転していた本件自動車がその前部バンバー付近をかよ子に接触させたという可能性があり、もし、これだけの補強証拠が揃い、第三者又は当事者にして、正確にこれを目撃した者があるならば、接触したこと認定に疑問をもち込む余地はないわけであるが、前記乙二〇号証(刑事の控訴審の検証調書)、乙一六号証(大村得三の供述速記録)によれば、身長八四糎のかよ子の肝臓は、左足の裏から測つて約五四糎の位置にあるのに、本件自動車とほとんど同じ自動車の前部のバンバーの高さは空車の時で三七糎から四七糎、運転手と助手それに当時と大体同程度の荷重と思われる人間四人が乗つた時の高さは更にこれより一糎位低くなり、その他自動車が接触したと想定できる自動車のその他の部分は、これより更に低い部分にあり、かよ子に何らの外傷がなく着衣にもその痕跡を示すものがないこと(かよ子の着ていたスエーターに油がついていたという中村徳枝の司法巡査に対する供述(甲二九号証第五項)と原告本人松本怜子の司法巡査に対する供述(三八号証)は裏付けがないので措信することが難しい)に照らし疑問とする余地があり、かつもし奈佐原が運転していた時又は停車した時に自動車の前部がかよ子に接触したものなら前方を注視して来た奈佐原や伊藤の視界に入つた筈であり、自動車のその他の部分が接触したものなら自動車の左側から降りて二度もかよ子と義弘の横を通つて二階の事務所に昇つて行つた伊藤や自動車の右側から降りたとはいえ、矢張りかよ子と義弘の横を通つて二階の事務所に昇つて行つた奈佐原が気付いたと見るのが相当であるのに、かかる事実がないこと、前記認定のごとく、溝板の上に坐つていたかよ子を抱き上げて以後の伊藤の動作には、事故を起した際に見られる周章狼狽の様子が見られず、不自然さがないこと等よりして、奈佐原の運転していた自動車がかよ子に接触したと認め得る証拠、根拠は薄弱といわねばならない。原審並に当審における原告松本怜子本人の供述によれば原告怜子は、かよ子を抱いて届けに来た伊藤明が、にやにやしていたと不愉快に見ているが、これは同人に罪悪感とか落度を感ずるものがなく、かよ子を親切に抱いて届けて来たのであつて感謝されてこそ然るべきものと思つていた感情が表われ、まさかかよ子が死亡するものとは思つていなかつたものを示すものと解釈できるのであつて、この批難は当らぬというべきである。

次に中村義弘の証言、供述について考察する。宣誓の趣旨を解さず、従つて宣暫していない幼児であつても証人能力がないという根拠はないから、この一事を以て同人の証言を採用すべきでないということはない。問題はそれが着相を告げているかどうかにある。前記<証拠>によれば、同人は、昭和三六年一一月三〇日本件の原審裁判官鈴木弘の面前で、同三九年五月一一日刑事第一審裁判官森山淳哉の面前で証人として尋問されたほか、その間の昭和三七年一〇一五日には司法巡査山口三雄に対し、同三八年一二月二日には検事西川潤に対し、当時の事情を供述して調書が作成されているが、事故当時三才四ヵ月の幼児であつた同人が最も短い時で一〇ヵ月後である昭和三六年一一月三〇日に、晩きは三年三ヵ月余を経過した同三九年一一月三〇日に行つた証言やその中間時期に行つた供述は、その観察認識能力、記憶力、認識したことの発表能力に不十分なものがあることは、原審の鑑定人田中正吾の鑑定結果を俟つまでもなく我々の経験則に照して明らかであるから、慎重に取扱うべきは当然であり、同人の証言、供述は、後になればなる程、かよちやんはエビス屋の自動車の左前のバンバーの中に入つたとか、自動車がかよちやんのお腹の上に乗つたという具合に一貫せず、一番近い時期である本件の原審裁判官の面前における証言においても、かよちやんのポンポンから血が出たとかいう具合で到底着相を正確に述べているとは思われないので、むしろ事故の後同人が祖父の木原三男に告げたという「かよちやんがエビス屋のブーに当つたわ、こけたわ」という趣旨の言葉(この言葉のうち、「かよちやんがエビス屋のブーに」、「こけたわ」、という趣旨の言葉まではこのままであると認められるが「当つた」といつたかどうか疑問とする余地がある。)が真相を物語つているものと当裁判所は考えるし、同人が当時この趣旨のことをいつたことは、同人の母である中村徳枝の証人尋問調書(甲一六号証)や供述調書(甲二八、二九号証)警察官上村国男の証人尋問調書(甲一七号証)によつても認め得るところであるが、これだけでは必ずしも事情が明確でなく、この言葉の意味するものはその主語の用い方よりして奈佐原の運転する車がかよ子に当つたというより、静止しているエビス屋の自動車にかよ子が当つてこけた(これによつてはかよ子の傷害が絶対に発生しなかつたと考えることはできない)と解釈するのが正しいようにも思われ、それに故にこそ、これをきいた木原三男も中村徳枝も当座はそれ程驚かず、(後になり中村徳枝は義弘のこの言をきき流さず、表を見ておけばよかつたと後悔している……甲二八号証の第五項)表へ出て見ることもしなかつたものと考えられるのであつて、中村義弘のこの直後の言葉の解釈によつても奈佐原の運転する自動車の方が積極的にかよ子に接触して傷害を与えたものと判断することはできず、又義弘がもし自動車がかよ子に衝突したのを見たら、そのままそこで遊んでいず、祖父や母、又は原告怜子方へ馳けつけてこれを告げそうなものなのに、その後祖父木原三男方に帰つた際語つたに過ぎないこともこの見解を支持するものと考えられるので、かよ子の死が奈佐原の運転上その他の業務上の過失によつて生じたものと断定することはできない。原告怜子は、奈佐原の運転上の過失又は伊藤明の無免許運転、特に伊藤が当時勝手に自動車をバックさせて本件事故を起したのでないかと考えている節が見られるが、かかる事実を認める証拠もない。

もとより、奈佐原や伊藤が接触を目撃せず(不感知の事故)、第三者にして目撃したものがなかつたとしても、本件自動車がかよ子に接触したと判定できる場合のあることは勿論であるが、そのためには我々の経験法則に照らし、それが合理的疑問を挿しはさむ余地のない程度に立証されねばならぬというべきところ、本件においてはこれを肯定するには多くの疑問のあるところといわざるを得ず、結局原告らの本訴請求は、その請求原因について証明がないものといわざるを得ない。

されば、奈佐原孝の業務上の過失を原因とする本訴請求は、爾余の点を判断するまでもなく失当であり、原審の判断は当裁判所と見解を異にするので、これを取り消して、原告らの請求を棄却し、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条、九六条を適用して主文のとおり判決する。

(岡野幸一郎 宮本勝美 菊地博)

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